文藝と絵畫

芸術に関して思うところ、芸術の試み、日々の雑感。

ヴァレリー『海辺の墓地』考

 私は文学に己を見る。そして文学は私を見る。対の太陽=死の元でのヴァレリーの海=生との交感はともすれば文学との交感であったのかもしれない。20年間に渡る沈潜の末に発表されたという点もそこに大いに関係しているだろう。この詩を書くこと自体が交感なのである。詩人は海を見て、海は詩人を見る。詩人は海を通して己を見るのだ。海に、生に、文学に、己を見るというのはまさに海の「眼」である。 自分と同じ高さに見えるセートの海。その海は眼を蔵している。
 ところで、ドイツのシュルレアリストマックス・エルンストが1925年に発表し た絵のなかに『海と太陽』という題のものがある。画面は中央が水平に二分され、上半分の青空に浮かんだ雲にかげる白い太陽が下半分の赤錆色の海に黒く反射している。太陽とその反射はただの円で描かれており、その構図は非常に簡素だが、空に浮かぶ白い太陽の中心には赤色と黒色で眼のようなものが描かれている。この絵を逆さまにして見てみ ると、上半分は夕暮れ時の空に浮かぶ不気味な黒い太陽となり、下半分 は青い海に眼のある太陽が反射しているような絵になる。
 これはある種、ヴァレリーの「眼を蔵する海」に通じるのではないだろうか。もしかすると太陽も眼なのかもしれない。もしくは死の反射としての眼なのだろうか。その真意は定かではないが、どこかこの絵には「永遠」や「繰り返し」という言葉が隠れているような気もする。
 『海辺の墓地』は海=文学が死と隣り合わせの生であるとも読み取れる。少なくともヴァレリーにとってはそうであったはずだ。そして、彼が己を見つめ直した時に初めて「生きねばならぬ」と思い立つのだ。つまり、冒頭のピンダロスの文句が詩句を一通り巡って、最終連の「風が立つ、生きねばならぬ」という文句に変化するのである。
 人間の生死と同じく、海と太陽もまた巡る。海は私、私は海。やがて太陽といっしょになる。ここに、ランボーの詩句が、回る。

Elle est retrouvé.
Quoi? — L'éternité.
C'est la mer allée
Avec le soleil.

(L'Éternité)