文藝と絵畫

芸術に関して思うところ、芸術の試み、日々の雑感。

BEAT混濁タ

 混ざり合う意識の深淵を歩いていた日々は何処に行ってしまったのか。認識の仕方すらわからなかったからこそ辿り着けたあの場所。今やそこがはっきりと見えるにも関わらず、透明の壁にやんわりと拒まれ、全く手が届かない。そうこうするうちに、だんだんと発想が朽ちてゆくのが目に見える。塗り固められた純粋思考、パターン化の悪循環、新鮮さをなくした肉体は言葉にならない沈黙を呟く。ーーああ、もうだめだ。
 見上げると、天高く、雲。その雲に座る人たち、浮かぶ天才の心理、僕とそれらを隔てる知覚し得ない空間、何かを口ずさみながら飛ぶ鳥、見える空間、有象無象の木々、ぶら下がったロープ、その枝葉の下の、僕。何をしようか。一体何ができると言うのか。人間性が人間を殺す、という一個の事件とその普遍性の犠牲者となり、僕はゆっくりと倒れ込む。喉が痛い。鋭角の気体がむき出しの地面の上を行き交う。
 ところで、君は針の山というものを知っているか。罪人がそこで贖罪の代わりに苦痛を味わって断末魔の悲鳴を上げるそうだ。怖いところだろう。でも、こんなことすらも事実なんだ。なんてことはない、ひとつの人間の真実。それを考えたとしても、やはり眠くはなるだろう。そして、ある日突然首を絞められるんだよ、後ろから、そっとね。しかし、それに抗う理由は実際のところないんだ。起きていると、辛い、悲しい。僕は歩かねばならない。祝祭なき現実の中で七転八倒しなければならない。ここに、現代のディオニュソスよ、来たれ。超克の男性である。
 だが、それはともかく、僕はなぜこのようなことを書き続けているのか。それは言葉と自分、そして人間への興味と探索によるものに他ならない。そしてこの文章が本当に何ものにもならない、他人にとっては何の意味も価値も、存在意義もないものだということもわかっている。だが、やはりこれは必要なことなのだ。僕はそう信じている。これは、数ある選択肢からの派生であり、何か真実にとっては重要なことでもある。忘れてしまった独自性への布石かもしれない。いずれにせよ、それらは後で知ることになる。いわば、後の自分の視野を広げるかもしれない行為だ。
 これらをわかって欲しいが、別に知らなくても良い。ただ、わからないというのだけはやめて欲しい。なぜなら、それは君が僕を拒絶しているからに違いないからだ。ただ、ぼんやりと感じるだけでいい。これを書くとやはりどうしても「不安」という言葉が思い浮かぶ。直接は関係ないものの、実はそのものでもある。この矛盾、理解の埒外、永遠という嘘、虚像の足下、冷たい黒い土。おおよその人間。このままどこかに。



2012年