文藝と絵畫

芸術に関して思うところ、芸術の試み、日々の雑感。

マラルメのこと

 マラルメの、人間方向への探索、それが行き着く先は一冊の書物である。イジチュールの内容は、存在の絶対への探索であり、それが一冊の本となっているため、マラルメの命題を象徴している、というよりはそのまま表している。しかし未完であるために、後の解釈はどうであれ、 彼からするとこの試みは達成されていないこととなる。
 社会には、バベルの塔(存在の高み)を阻むものばかりがはびこっており、時代を追うごとにその数は増していっている。人間は宗教の教えのように、苦しむべくして生まれたわけではなく、何かそれぞれを苦しめ合い、そして自ら苦しんでいるだけに過ぎないのではないか。
 実際、マラルメのような試みは人間的に見て賞揚されてしかるべきであり、むしろなされなければならない人間の命題であるにも関わらず、なぜ現状の ように人々は何も知らず、というより意図して無視しているようなかたちになっているのだろうか。思うに、それはまだ人間が幸せでいたいからである。考えないこと、もしくは盲信することは人間の健康の第一条件だ。それに対して、考えることは逃げ場のない一本道をひたすら前進することだと言える。
 ある者は絶望し途中で身を投げ、ある者は諦めた上でその道を進み、ある者はあるかないかわからないその目的地を求めて苦しみつつも歩みを進める。 そして、その先には「一(いつ)」がある。帰一、合一、全一。すなわち絶対。
 純粋精神は絶対を顕現させる。しかし外からの笑い声(肉体の意志)は精神の意志を惑わせる。そして精神に永遠があると思い込ませる。マラルメ=イジチュールは先祖からの目的すなわち絶対を喚起させ、実現へと向かう。そこでの永遠は偶然の産物、純粋精神は絶対の産物として表れる。純粋精神は事物の絶対、全一、合一、絶対的な停止であり全的な時間である。