文藝と絵畫

芸術に関して思うところ、芸術の試み、日々の雑感。

未・人は罠に

 呪われた探索者は取り憑かれているのだ、帰一の間逆にある「数」、存 在の中の狂気に、イジチュールの方向に。そして数が彼に宿る時、顕現する、「現在」が、現在に。それはバベルの塔の建設が、なぜ禁じられたかという問題に帰着する。実際、天にも届くかと思われた塔は、存在の恐るべき低さを誇ろうとしていた、底知れぬ事物の深みがその「絶対」を 曝露するまで。しかし、人間、そう、他ならぬ幸せな「人間」が、彼らの幸せのためにそれを禁じてしまった、神話を作り上げてしまった、存 在の欠陥を、存在の中に。純粋性の中において、単純に、そして最も純 粋なものは認識によって葬られている。「葬り去られた先」と「葬られ る前」は獲得されねばならない、存在の中で。書物はそれを、詩人は。


  ……


 いかんせん「社会」にはクソッタレなものが多すぎるし、その社会に飲まれつつも生きようと必死な多数派は皆それを持ち上げて客観性だとか権威だとかを付けたがる。それが絶対的な個人の真実をもうめちゃく ちゃに邪魔している。
 いかに精神の内部に目を向けさせないか、が社会の命題となっている。例えばキリスト教などは人々を無知のままにしておくためにできた、支配のための補助機能でしかない。そういった意味で仏教はひとつ抜け出ている。初めから虚無を明示しているからだ。しかし無知な西洋 は仏教を批判した。そしてその後には反省があったようだが、愚かしい考えを披瀝していたことは隠しようがない。
  我々日本人には仏教があるにも関わらず、キリスト教・西欧の影響を受けすぎている。ただし芸術に関して言えば、その恩恵を計り知ることはできない。もしも東洋的な無為の自然に、うまく西欧的な芸術観だけが重なれば、先人たちの思い描いた何か至高の美のようなものがもっと早い段階で生まれたに違いない。しかし実際、社会は手ごわい。人はそれによって、純粋な物事に行き着くことがなかなかできないでいる。
 純粋を成立させるという自負のある者こそが一番マトモなのではないか。そう考えると、イジチュールの「狂気」はマラルメによって逆説的な響きを付与されたこととなる。そして『イジチュール』にとってはこ こまでが前提となるだろう。 その後、ポール・ヴァレリーマラルメを受け継いで、我々に近づいてきてくれた。この二人については言わばひとつのセットとして考えねばならない。まだ調べてはいないが、彼らの純粋詩の「純粋」はこの二 人の意味において名付けられたものだと推測できる。
 海流に逆らって、河口へ、源流へと遡上せねばならない。さもなくば、我々は太洋のど真ん中で太陽に焼き尽くされ、世界とか社会の養分となって しまう。なので、私は、マラルメ・ヴァレリー以降の人間存在の養分になりたい。きっとそこには宗教が言ったような人間的な苦しみはないはずである。